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記事詳細

2016/03/03 14:13

Part 1
ヨハネス・フェルメール
1の絵↑↑ 『真珠の耳飾りの少女』
1655年頃キャンバスに油彩 マウリッツハイス美術館蔵
ヨハネス・フェルメール Johannes Vermeer (1632~1675)

ヨハネス・フェルメールは、17世紀、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、
バロック期を代表する画家の1人である。映像のような写実的な手法と
綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。

◆美とはなんでしょう?◆
ある日、ワインアディクトな筆者からある提案が舞い込んできた。
「ワインは美しいのか?」その大命題をマジメに考察したくはないかと。
この連載は、そんな、ひと言から始まった・・・。

これを読んで下さっているあなたに、最初に質問。
ワインをはじめて飲む人に、いいワインと「偉大なワイン」の差を、どうやって説明しますか。

日々、口にするワインには、実にさまざまな味わいのものがあります。
何も難しいことは考えず、コップでグイグイ飲むのが楽しい890円のワイン、毎日とはいかないにしても、
「ああ美味しいなあ、ワインっていいなあ」と思える3,900円のワイン、財布には厳しいけれど、
深い感動を覚えずにはいられないオーバー1万円の高級ワイン。

そして「生きていて良かった」、「人生が変わった」とまで思えるような、奇跡的な
逸品まで(値段は・・・・・?)ワイン仲間に引きずり込もうという友人に、この経験をどう説明したらいいでしょう。

それぞれの価格帯ごとに、それなりの悦びと、
ふさわしいTPO(ティーピーオー)Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)が
あります。値段の高いワインが、いつでも必ず優れているとは言えないでしょう。

毎日昼晩、三つ星の店で食事し続けるのは、拷問に近いと、食べ歩きが仕事の料理研究家は言います。
シャトー・ディケムのような貴腐ワインを一日中、百銘柄も試飲しつづけたら、たとえワインを
飲み込まずに吐き出していたとしても、胃が鉛のように重くなります(ウソだと思ったら一度やってみましょう)。

それでもやはり、一部の高級ワインには、カジュアルなワインに決して見られないであろう「優れた性質」が
あります。飲み手の心を大きく揺さぶり、深い感動をあたえるような性質です。みなさんの誰もが、
一度はそんな経験を与えてくれるワインに巡り合ったことがおありでしょう。

さて、そうゆう「偉大なワイン」を味わったときに感じる心の動きについて、わたしたちは
どんなふうに表現したらいいのでしょう。「おいしい」というシンプルな言葉では、かなり物足りない気がします。

ワインスクールに通うと、ワインを言葉で表現する方法は習うことができます。
ワインの見かけ、香り、味わいなどを分析的に記述する技術を磨くのです。

一年も学校に通えば、「偉大なワイン」の特徴についても、立派なコメントができるようになります。
たとえば、1961年のシャトー・オー・ブリオンは、「グラスの緑がオレンジ色を帯びた、中程度の濃さの
茶がかった赤色で、香りにはドライフルーツ、腐葉土、紅茶、キノコといった熟成由来の要素が感じられ・・・」
といった具合に表現されるでしょう。

こうした分析的なコメントは、とても正確な感じはしますが、61年のオー・ブリオンが与えてくれる、
魂を揺さぶるような感動については多くを語ってくれません。この分析的な評価を聴いた人が、
私の感動を理解できるでしょうか。

モーツアルトの交響曲の良さを伝えようとして、「最初は、ドの音が短く鳴り、次は長めの
ソの音が・・・演奏者の数は、第一バイオリンが三名、第二バイオリンは二名、
ヴィオラが二名・・・」と、やっているような感じです。(モーツアルトが泣きそうな・・・)

では、「偉大なワイン」がもたらす心の動きについて、「素晴らしい音楽や絵画といった芸術作品に、
感激したときのようだ」と言ってみるのはどうでしょう。すこしは、的に近づいた気がします。
ただし、これは似ていると思われるものに、たとえているだけです。

「そんなことを言われても、芸術のことはよく知らないからわかりません」、という反応が返ってくるかもしれません。
「芸術作品に感激したときの心の動き」とはどんなものかを、やはりはっきりさせないといけません。

モーツアルトを聴くこと(お気に入りの音楽家に代えてくださってけっこうです)と、
偉大なワインの感動とは同じものでしょうか。その「偉大さ」を伝える言葉は同じでしょうか。
それはどんな言葉でしょうか、ワインや音楽、そして恋人への、熱烈な愛の言葉と・・・どんな言葉でしょう。

西洋では昔から、芸術作品に感動したときの心の動きが、学問として研究されてきました。
それは美学と呼ばれています。芸術の「美しさ」とは何かを掘り下げる学問です。

偉大なワインが、芸術品や恋人と同じように愛する対象で、かつ「美しい」と呼べるので
あれば、その素晴らしさは美学の視点で語ることができそうに思われます。

◆ワインの美学は成立するか?◆
ここ数年、ワインを哲学的・美学的に論じる本や論文が、英語圏では盛んに出版されています。
今年2012年の夏には、『ワインの美学』(The Aesthetics of Wine, Wiley-Blackwell)という
タイトルの専門書も、イギリスで刊行されました。ちょっとしたブームです。

ただし、伝統的な美学の世界ではふつう、ワインを含むの飲み物や食べ物を、
芸術作品と同列に論じたりはしません。「芸術とは違う快楽」という地位しか、味覚や嗅覚の悦びには
与えられてこなかったのです(この話は別途、先の回で深く掘り下げます)。

ところがここに来て突然、「いや、そんなことはないんじゃないか?」と、一部の美学者、哲学者が
盛り上がっているというのが現状です。

一方、ワインの業界内を見てみると、高級ワインを芸術になぞられることは珍しくもなんともありません。
もはや、手垢(てあか⇒物についたよごれ)がついていると言ってもいいぐらいです。その昔、
カルフォルニア・ワインの大立者であった故ロバート・モンダヴィ翁(おきな⇒としとった男、老人の敬称、
また、けんそんした自称)は、「ワインは芸術だ」という宣伝コピーを大きく打ち出しました。

みなさんが、今、手にしているこの雑誌が、「美術出版社」という版元から刊行されていて、
「ワイン Wine + アート art = ワイナート Winart」という名前がついているのも、駄洒落ではないでしょう。
アメリカの有力ワイン評論家、ロバート・パーカーの百点法でのワイン評価に反対する人々は、
「ダヴィンチのこの作品は98点、こちらのシャガールは96点とやるようなナンセンス」と、よく芸術作品への
批評を引きあいに出しています。

ワインをヘビーに飲む人々はたいてい、どこで偉大なワインと芸術との
類似を感じているのでしょう。もちろん、ワインを芸術品と同列に置くことでその付加価値を増し、
少しでも、高くたくさん売りたいという商業的動機もあるでしょうけれど。

さて、ここまでの話を整理しますと、以下のようになります。

●「偉大なワイン」は芸術作品に似ているかもしれない(ワイン業界では半ば常識)。

●芸術作品の良さを研究する学問として、昔から西洋美学というものがある。

●西洋美学とは、その名の通り芸術作品の「美しさ」とは何かを考えるものである。

●西洋美学の世界では、ワインが芸術のように「美しい」か、どうかについて、意見が割れている(ここで
いちいち「西洋」がついているのは、いずれお話しします)。


では、西洋美学の教えに沿いつつ、ワインの「美しさ」と芸術作品の「美しさ」を実際に比べていきましょう。
と進みたいところなのですが、問題はそう単純ではありません。芸術とは、美しいものという前提が、
今の時代には崩れてしまっているからです。

2の写真
2の写真 ↑↑ 『泉』 アルフレッド・スティーグリッツによって撮影された写真の一枚である。
マルセル・デュシャン Marcel Duchamp (1887~1968)

マルセル・デュシャンは、フランス生まれの美術家。
20世紀美術に決定的な影響を残した。画家として出発したが、
油彩画の制作は1910年代前半に放棄した。チェスの名手としても知られた。
ローズ・セラヴィという名義を使ったこともある。
2人の兄、ジャック・ヴィヨンとレイモン・デュシャン=ヴィヨンも美術家。

◆美しくない芸術の時代◆
まず、1の絵を見てみましょう。フェル・メールという17世紀オランダの画家が描いた、
『真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)』。素直に「美しい」絵ですね。

趣向を変えて、3の写真はどうでしょう。
イタリア・ロンバルディア州のイゼオ湖から見た夕陽(ゆうひ⇒夕日)です。
これも美しい景色です。行ってみたいなあ、見てみたいなあ、と思わせる景色ではないでしょうか。

それでは、2の写真、マルセル・デュシャン作『泉』芸術作品をどう思いますか。

「美しくない」物体が写真に写っていますね。これはマルセル・デュシャンという20世紀前半に
活躍した前衛芸術(ぜんえいげいじゅつ⇒既成の芸術概念や形式を否定し、革新的な表現を
めざす芸術の総称)家が、リチャード・マットという変名を使い、1917年に
ニューヨークの展覧会に出品した作品です。

どこにでもある工業製品の男性用便器に、「R.MUTT,1917」と署名しただけのもので、
タイトルは『泉』。中学校の美術の時間に課題として提出したら、先生にこっぴどく叱られそうです。
「美しさ」の対極にあるようなこの作品が、なぜ芸術なのでしょう。

デュシャンの狙いは、「芸術とはいったい何なのか」という問いを、当時のアートシーンに
突きつけることでした。芸術作品と呼ばれるものは、わたしたちの身の回りにある机や椅子、ドア、風呂
といったものと、本質的に何が違うのか。ひょっとすると、美術館に置きさえすれば、
何でも芸術作品になるのではないか。便器ですら、と言うわけです。この時から、20世紀の絵画や
彫刻などは、「芸術とは何かを根源的に突きつめるもの」という色彩をどんどんと帯びていき、
昔ながらの「美しい」ものではなくなってきています。

音楽の世界でも同じことが起きました。
20世紀の大変高名な作曲家に、ジョン・ケージというアメリカ人がいます。
この人の代表作は、『四分三三秒』という「曲」なのですが、これはピアノの前に演奏者が立ち、
何もせずに一定時間じっとしているだけというもの。冗談のようですが、20世紀以降の芸術とは
そういうものなのです。

「芸術」という言葉は、ドイツ語では schone Kunst 英語では finears フランス語では beaux-arts
と言いますが、schon(e),fine,beaux の語はいずれも「美しい」を意味します。もともと、芸術とは、
その言葉からして「美しいもの」だったはずなのですが、今では様子が一変してしまいました。
美学も同じです。美学とは、芸術作品について考える学問なのですから、芸術作品が変わってしまえば、
美学の守備範囲も当然広がらねばなりません。だから、現代の美学は、その名に反して
「ちっとも美しくないもの」についても、あれこれと考えています。

◆美しさとは何か?◆
人が何かを素直に「美しい」と思う感覚は、ある種の心地よさです。それをひとまず「感覚的な美的快楽」
と言うことにします。一方、問題を解いたり、推理したりする知的な楽しさ、心地よさ、「知的快楽」も
関与しているように思われます。

頭を働かせるプロセス以外でも、それまでに人が得てきた「知識」が、その快楽に影響を与え、判断に
作用することはよくあります。1のフェルメールの絵画についても、有名な画家が描いたと
知っているからこそ美しく見え、いい絵画だと判断している部分があるでしょう。

フェルメールについての予備知識があれこれあれば、その感動はさらに増すかもしれません。
レンブラントと並んで17世紀オランダ美術を代表する巨匠であること、現存する作品が三十数点と
極めて少なく希少価値が高いこと、「光りの魔術師」の異名を持つこと、ウルトラマリンという顔料を使った
鮮やかな青が「フェルメール・ブルー」と呼ばれていること、などなど。

高級ワインを味わうときも、ブラインド・テイスティングであっかなびっくり飲むよりは、ラベルを見ながら
安心して楽しむほうが美味しく感じることが多いのではないでしょうか。知識の量だって影響します。
オー・ブリオン1961を開けるとき、単に20万円のワインだということしか知らない人より、17世紀から
イギリスで高く評価されてきた歴史ある蔵で、1855年には第一級に格付けされ、1961年は伝統的な
ヴィンテージで、パーカーが100点を付け・・・といった知識を持つ人のほうが、より大きな悦びを
得られることでしょう。

まとめますと、人間が感じる「美しさ」とは、単純な、あるいは動物的に感覚に近いようにな心地よさに、
知性の働きによる心地よさが加わり、そこに知識も影響を及ぼしているものだと定義してもよいでしょう。

3の写真 ↑↑ イタリア・ロンバルディア州のイゼオ湖から見た夕日
3の写真 ↑↑ イタリア・ロンバルディア州のイゼオ湖から見た夕日

3の写真のような自然の風景が「美しい」ことは、いにしえの時代から誰もが認めてきました。
しかし、美学、とくに18世紀後半後以降の西洋美学の伝統は、芸術美を優位において自然美を切り捨ててきています。
文化を築き、芸術を生み出す人間精神の方が、自然よりも優れているという前提からです。
こういう態度をどう考えたらいいでしょう。

自然は神様が造ったものだから、人間の造った作品より優れている、という考えもあるはずです。
人間が自然の素材(テロワール+ブドウ)から造ったワインは、神が造った「自然の美」と、
人が造った「芸術作品の美」の、どちらに近いのでしょう。

さらに、「美しい」という評価について言えば、誰もが、同じものを見て、同じような美しさを感じるのか、
という問題もあります。最初の二つの絵画、1の絵について、何気なく「美しい」と書きましたが、
この絵を見て「美しくない」と感じる人だって実際にいるでしょう。1の絵が美術館に展示され、(仮に
売りに出されたら)高価な値段がつくのは、単なる多数決の結果なのでしょうか。

それとも、一部の専門家や権力者の「美しい」という判断だけが重視され、素人や庶民の反対意見が
顧(かえり)みられ(顧みられ⇒過去に起こった事柄が頭に浮かぶこと思い出される)なかったからなのでしょうか。

ワインでも、同じようなことはあります。ワインを飲みなれていない人に、オー・ブリオンを飲ませてみるといいでしょう。
残念ながら、かなりの割合の人が「妙な味」という感想を持ち、その偉大さを楽しむことができないはずです。


美を感じられる感覚は何か、という問題もあります。先にも触れましたが、美学の世界では、ふつう、美を感じるのは、
視覚と聴覚だけだとされてきました。それでは、視覚と聴覚以外の感覚、つまり触覚や、嗅覚、味覚は、
美を感じることができないのでしょうか。

目も見えず、音も聞けず、言葉もうまく発せられない人は、美を経験できないのでしょうか。
これまでの美学という学問が、視覚と聴覚だけをことさら強調しているのは、この二つの感覚のみが、
知性や理性の働きと協働作用ができるからだ、ということです。

でも、これは本当なのでしょうか。
偉大なワインを飲むとき、わたしたちの頭脳はただ「きもちいい~」と、快感に打ち震えているだけですか。
そもそも、感覚や感性と、知性あるいは理性を分離するという美学の前提は正しいのでしょうか。
みなさんなら、それぞれの問題に、どう答えますか。 

本連載では今後、いろんな角度から、偉大なワインの持つ「美しさ」について掘り下げ、
それを表現する言葉について考えていきたいと思います。

※株式会社美術出版社ワイナート2013年69号から掲載文引用

Part 2
デイヴィット・ヒューム
デイヴィット・ヒューム David Hume (1711~1776)

デイヴィッド・ヒュームは、
スコットランド・エディンバラ出身の哲学者である。

イギリス経験論を代表する思想家であり、歴史学者、政治哲学者でもある。
政治経済にも幅広く著作を残し、以後の世代に大きな影響を与えた。

●参考文献●
デイヴィット・ヒューム「趣味の基準について」浜下昌宏訳、『現代思想』(青土社)1988年9月号/
ガダマー『真理と方法1』(轡田収他訳)法政大学出版局、1986/
小田部胤久『西洋美学史』東京大学出版会、2009/

◆審美眼としての「趣味=味覚」◆
同じ日本人でも、育ちが違えばおのずとその趣味も異なるもの。
それは味覚とて同じこと。当然同じワインも、味わう人が違えばその味の印象も異なる。
それも至極(しごくとうぜん⇒極めて当然であること、非常に尤も(もっとも)であること)・・・なのか?

今回は、「同じワインを飲んでいても、人によって感じ方や好き嫌いが違う」という、
ワイン好きなら誰もが経験する問題を取り上げます。

自分には良いとも美しいとも思えないのに、他の人には大変価値があって有難がられている。
これは、ワインの「よさ」や「美」にあてはまるものでしょうか。例を挙げて考えてみましょう。

(その1)2人のワイン好きが、1,500円のニュージーランド産ソーヴィニヨン・ブランを飲んでいます。
1人は、「この爽やかなグリーンの香りがいい」と杯を重ねますが、もう1人は「この品種、嫌い。
青臭い、ピーマン臭い」と一口グラスに付けたきりです。

(その2)初心者向けワインスクールの初回クラス。かなり高価なメドックの赤を出して、
生徒の好みを聞いてみます。ほぼ半分ぐらいの人が「嫌い」と言います。半年後、二十回ほどのレッスンを
重ねていろいろなワインを飲んだあと、再び同じようなメドックを出します。すると、「好き」と
答える人の比率は九割ぐらいになります。

(その3)サン・テミリオンの銘醸、シャトーパヴィの2003年を巡って、アメリカを代表する
ワイン評論家ロバート・パーカーとイギリスを代表するワイン評論家ののジャンシス・ロビンソンが
大喧嘩をしました。パーカーが96~100点という高得点を付け、「このヴィンテージのボルドー右岸で
トップ3に入る」と激賞したのに対し、ジャンシスは20点満点中、12点しかこのワインに与えず、
「ポートや遅摘みジンファンデルのような、過熟で馬鹿げた」ものだと、こきおろしました。

◆「趣味=taste」の二つの意味◆
芸術作品に対するこうした好みの違いを、西洋美学・哲学では、「趣味」の問題として扱っています。
ここで言う「趣味」とは、「余暇(よか⇒仕事をはなれて、自分の勝手に使える時間、ひま)に
楽しむ個人的な娯楽=hobby」ではなく、「物事の良し悪しを見極める審美眼=taste」のことです。

インテリアが自慢の部屋に恋人を連れてきて、「いい趣味ね」と言われて嬉しくなるときの用法が
そうです。「ご趣味は何ですか?」「能のお謡い(おうたい)です」「それは高尚(こうしょう⇒
俗っぽくなく、程度の高いこと)なご趣味(=hobby/taste)で」といった、二つの意味が絡み合った
会話もありそうです。

興味深いのは、この「趣味=審美眼(しんびがん⇒一般的には「美を見極める能力」)」の
英語tasteが、「飲食物の味、味覚」という意味を持っていることでしょう。
「美味」という言葉もあります。好き嫌いや趣味の多様性を意味する諺(ことわざ)で、

「蓼食う虫も好き好き」(たでくうむしもすきずき⇒タデの辛い葉を食う虫もあるように、
人の好みはさまざまであるということ)というのはご存知でしょうけれど、その英語版は、
「There is no accounting for taste=趣味/味の好みは説明できない」です。

英語のtasteにあたるフランス語のgout ドイツ語のGeschmackも、「趣味」と「味覚」の二つの意味があります。

歴史をひもとくと、十七世紀後半から十八世紀の西欧で、この「趣味」の問題が盛んに
議論されました。十八世紀を「趣味の世紀」と言う人もいます。ちょうど革命前後の
時代で、崩壊寸前の宮廷から、市民の世界に出てきた芸術家や料理人が、開館したばかりの
美術館に集まったり、レストランを始めたりするころです。

時代が少し下ると、ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン(『美味礼賛(味覚の生理学)』1825)や
グリモ・ド・レニエール(フランスの有名な美食家)等が、料理批評を始めます。つまり、芸術と同時に
グルメ(味覚)の趣味も問われる時代になったわけです。

それより少し前の十七世紀後半にも、バルタザール・グラシアン(Balthasar Gracian 1601~1658)
というスペインの神父が、味覚は「趣味=審美眼」の一部であると言っています。味覚という感覚的趣味は、
動物的ではあるが、精神的判断を備えている。訓練をすれば「いいものをいいと感じる」ための
「趣味=審美眼=味覚」の能力が備わり、それを共有する仲間もいる、ということです。

この考えは、それまでの伝統的な身分による趣味の区別を否定し、各自の能力の研さんを奨励しつつ、
単純な個人の嗜好を越えたところに共通性を求める、という点で、近代的な市民の教養にふさわしい
社会的な現象とみることもできます。

とはいえ、その「趣味=審美眼=味覚」が普遍的なものかどうか。
つまり、誰もが一様にいいものをいいと感じるかどうかについては、冒頭の例の通り、そうではないことが
多いように思えます。多様な価値観は相対的ですが、趣味の良し悪しを決める物差しもありそうだという、
相反する問題を解決する必要がでてきます。

◆ヒュームの考え◆
「趣味の世紀」のただ中で、この「趣味=審美眼」が、普遍的か相対的か
という問題を考えた人に、ヒューム(David Hume 1711~1776)という哲学者がいます。

「趣味の基準について/Of the Standard of Taste」(1757)という、そのものズバリの
論考(ろんこう⇒あるテーマについて論じ考究した文章、論文)を書いたヒュームは、
有名な『ドン・キホーテ』からワインに関する次のような
挿話(そうわ⇒文章や談話の中途にはさみこまれる、本筋と直接関係がない短い話、エピソード)
を引きました。まずは見てみましょう。

我が一族は、ワインの味を見極めるのが特技であって、自信もあると、ドン・キホーテの
従者サンチョが言う。昔、一族の者が二人呼ばれ、あるワインについて意見を求められたことがある。

偉大なヴィンテージ産の古酒で、大変に上等なものと考えられている大樽だった。
1人が味見をして、じっくり考えてからこう言った。このワインは素晴らしい。ただし、
ワインの中に見つかるちょっとした皮の味がなかったならば、と。

もう1人も同じようにしたあと、そのワインの良さをたたえたのだが、はっきり感じられる鉄の味には
難色を示した。二人の鑑定の(不一致)が、
どれだけ嘲笑(ちょうしょう⇒あざけって笑いものにすること)を浴びたことか。
しかし、最後に笑ったのは誰であろう。大樽を空にしてみると、底に革ひものついた古い鍵が
見つかったのである。

ヒュームによる「趣味」の論考は、基本的には芸術作品に向けられたものです。
しかし、利き酒(ききざけ⇒酒の品質を判定すること)の専門家によるワイン評価の挿話(そうわ)を
例えに持ち出したのは、芸術作品の鑑賞・批評との共通点を見出しているからでしょう。

実際ヒュームは、「趣味と味覚はとても似ている」とも書かれています。趣味は、美しさの判定と
関わりますが、同時に「心地よさ(快楽)」とも結びついています。つまり、美は、まず美的快楽として
現れるという前提があるので、芸術作品とワインとのアナロジー(特定の事物に基づく情報を、
他の特定の事物へ、それらの間の何らかの類似に基づいて適用する認知過程である)が設定されていると
考えてもいいでしょう。

複数の専門家がなんらかの芸術作品やワインを鑑定し、それが快をもたらし、優れたものであることに
ついては一致する。しかし、ごく小さな細部(さいぶ⇒細かい部分)については二人とも否定的な見解を述べ、
しかもその細部自体は異なっている。ところが仔細に観察すると、専門家二人が否定した細部はともに
鑑定したものの中にあって、それぞれ別の部分に着目していただけだった。

二人のような審美眼を備えない他の者たちは、同じ水準での評価ができないので、
意見の不一致を笑うことしかできない。趣味は、単純に快を感じる(おいし~い、きれ~い)だけでなく、
その美しさやおいしさの要素を判別し、その中のどれが快適=美的経験の重要な要素か、マイナス要素かを
識別できる。・・・この挿話(エピソード)を、ざっと説明すればこんな感じでしょうか。

ヒュームの論考循環 チャート下部は同形のロバート・パーカーの例
※ヒュームの論考循環 チャート下部は同形のロバート・パーカーの例

ヒュームの立場は、優れたものを評価する「趣味=審美眼」が、ある程度まで普遍性を持つ
というものです。その証拠に、古代ギリシャの大詩人、ホメロスのような天才の作品は、
時代を越えて高く評価されているではないか、と主張します。

ただ、その普遍的な「趣味=審美眼」を、持っている人といない人がいるだけだと言うのです。
ではどうすれば、「持っている人」になれるのでしょうか。それには、やはり「訓練」が
必要だとヒュームは言い、さらにその訓練は「比較」を通じてなされるとも述べます。

これはワイン好きなら納得できる話です。冒頭の例のように、高級ワインの良さを
わかるようになるには、ある程度のトレーニングが必要です。

いろんなワインをたくさん飲み、いいもの、普通のもの、イマイチのものを比べ、
いいもの同士を比べることで、ワインの鑑賞能力は身に付きます。

ワインを飲んだことがない人はもちろん、ロマネ=コンティしか飲まないという
成金紳士や安ワインしか飲まない人も、優れたワインの本来の良さはわかりません。
ある程度の訓練をしないと、ホメロスの詩の良さが真に理解できるようにならないのと同じです。

訓練や比較を重ねることで身に付く「趣味=審美眼」の正体とは、対象の中にある「精妙さ delicacy」が
判定できることだとヒュームは述べています。微細(びさい⇒きわめて細かなこと)で、いろいろと混合
しているかもしれない小さな要素(ドン・キホーテの挿話では、鉄や皮の味)を、見分けた末に感じられる精妙さ。

これもワイン好きなら納得できる話です。ヒュームが現代に生きていたら、
最大の賛辞である「フィネス finesse(繊細さ)」を、「精妙さ delicacy」と同じ意味だと捉えそうです。
なお、ヒュームは、「優れた味覚は強い味によっては試されない」と、濃いだけのワインを否定するような
コメントもしています。

訓練を重ねた結果、レストランで繊細なワイン・・・たとえば、優れた造り手のモーゼル産リースリングを
注文したら、「趣味(taste)がいいねえ」と同席者に誉められるでしょう。

ヒュームによると、正しい「趣味=審美眼」を持つためには、権威や偏見から自由になることが必要で、
そのためには良識(りょうしき⇒偏らず適切・健全な考え方)がなければならないとも言います。

世界の高い鑑定家の点数にこだわるな、ということです。しかし、一方で、個人の性質や、習慣・風習から
完全に抜け出して判定することは困難であるとも言い、「審美眼=趣味」の普遍性に一定の限界を設けています。

若者は、濃いワインを好み、年をとれば、古くて枯れたワインが好きで、その間を調停することは簡単ではありません。
冒頭の例に挙げたパーカーとジャンシスの論争も、普遍性の限界を示す好例でしょう。二人が、「趣味=審美眼」を
備えたワイン鑑定家であることを否定する人はいません。でも、個別の銘柄の評価を巡っては真っ向から対立することも
起こるのです。それは二人の食文化の違い、個人の性格やワイン観の違いなどに根差しているのでしょうか。

◆二つのレベルの「好きずき」と普遍性の根拠◆
ヒュームを参考にしてみるとわかるのは、「蓼食う虫も好き好き」
(たでくうむしもすきずき⇒タデの辛い葉を食う虫もあるように、人の好みはさまざまで
あるということ)には、どうやら二つの異なるレベルがあるらしい、ということです。

まず、「好きずき」とは単なる好みの差、すなわち「趣味=審美眼」による判断を伴わないものです。
「日曜日、僕は釣りに行きます」「アタシはゴルフにいくわ」。どうぞご自由に、
「個人的な娯楽=hobby(趣味)」はこのレベルでしょう。

英語の「taste」という言葉が持つ二つの意味のうち、「飲食物の味、味覚」についても、
一部の例外(美術品のような精妙さを備えたもの)を除けばこのレベルに属しそうです。

ナマコが嫌いな人に、その素晴らしさをいくら説いても(といても)改宗(かいしゅう⇒
従来信仰してきた宗旨を捨てて、他の宗旨に改める事である)をさせることはできません。

冒頭に挙げたニュージーランド産ソーヴィニヨン・ブランを巡っての意見対立も、こうしたレベルにある
「好きずき」でしょう。1,500円のワインには、おそらく「精妙さ」はありませんから。

一方、もう少しのレベル、すなわち精妙さ、「趣味=審美眼」による判断での「好きずき」は、
下のレベルと比べるとうんと幅の小さなものに思えます。これは、芸術品であっても、
精妙さを備えた最高のワインであっても変わりません。

五大シャトーのうちどれが一番好き、と聞かれたワイン好きは、めいめい違う答えを口に
するでしょうけれど、すべて極上のワインだということは前提になっています。

パーカーとジャンシスも、マクロに見ると意見が一致しているほうが圧倒的に多いでしょう。
とはいえ、上のレベルの「好きずき」を小さなものにしている「趣味=審美眼」の普遍性が、
どこに根拠を持つのか、という問題は残ります。

精妙さの判定ができることが、正しき「趣味=審美眼」だ、とヒュームは言います。
たしかに、正しき「趣味」とは、精妙さを備えた優れた芸術作品に触れること(訓練・比較)で
養われる。しかしその芸術作品の優秀性とは、(既に世間に認められた)精妙さに裏打ちされて
いるという点で、彼の論理は循環しています。

・・・正しい趣味は、優れた作品を鑑賞して得られその作品の良さがわかる⇒優れた作品は
精妙さを持っている⇒精妙さを優れた作品に見つけるのが正しい趣味である。

同じ形をした簡単な例を挙げると・・・パーカーは優れた評論家だ⇒優れた評論家とは
優れたワインを誉める人だ⇒優れたワインとはパーカーが誉めるワインだ・・・こうなります。

「趣味=審美眼」の普遍性に根拠がないとすると、ここまで積み上げた話もすべて崩れ落ちて
しまいます。1,500円のソーヴィニヨン・ブランが、シャトー・マルゴーよりも精妙で美しい、
という主張もその逆の主張も同じことになり、「蓼食う虫も好きずき」という振り出しに戻って
しまうのです。

「趣味=審美眼」の普遍性、何が美しく何がそうでないかを正しく決めることの根拠は、
どこか「外」なのでしょうか?ヒュームの「趣味の基準」とは、すでに是認(ぜにん⇒
よいと、または、そうだとして、認めること)されたブル・ジョワジーの基準に他ならない
という批判もありますが、これが「外」なのでしょうか。

堂々巡りになりそうなヒュームの議論を好意的に解釈するとこうなるでしょう・・・
自分の好きなものを繰り返し味わい、周囲もそれを共有して習慣となると、いつしか
先入見(せんにゅうけん⇒物事に対する、ある時点より前の段階で持っていた印象や考えのこと、
先入観 に同じ)になる。

すると、ある視点からしか物事を判断できなくなってしまいます。
先入見から完全に自由になることはできません。しかし、あえて違う先入見、自分とは異なる
価値を認め、そこに身をおいてみる、あるいは自分の立場から距離をとってみて、一歩、普遍的な
立場に進むこともできます。

自分の好みでないかもしれないワインも、それを好きな人の身になって、謙虚に飲んでみるという
ことでしょう。この意味で「趣味」とは、精妙さを見極めつつ、相手の立場を想像しながら
自分を普遍化(ふへんか⇒個別的・特殊なものを捨て,共通なものをとり出すことによって
概念や法則などを引き出すこと)していく能力で、ワインの鑑定にも必須といえます。

※株式会社美術出版社ワイナート2013年70号から掲載文引用

味は美を語れるか3~4

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最終更新:2016/05/30 16:34

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